鬼喰いと皇子 1「……はぁっ、………んっ」 どうしてこんなに身体が熱いのだろう。どうしてこんなに息が荒いのだろう。 現在の行動を見れば答えが分かる問いかけを一人、永遠と繰り返していた。 脳内ではただ一人の人物がいつもの様に不敵に微笑んでいた。 次第と早まる手の動きに合わせて、呼吸も加速し始める。 「んんっ……、ふぅ、ん…あぁっ……!」 虚しい一人遊びのなれの果て。 事後の虚無に似た幸福感に満たされながら掌を見ると、ぐっしょりと濡れていた。 「…………いさん」 いけない事だと分かっている。決して法的にも世間的にも、許されるものではない。一生この想いが叶う事もないだろう。 けれど、狂おしいほど愛しくて、罪だと分かっていても諦められない。 僕は、馬鹿なのだろうか。 何故だか懐かしい昔話がぼんやりとした頭の中を過ぎった。 『悪い子は鬼に食べられてしまいますよ』 あぁ、この想いも僕自身も罪ならいっそ鬼に全て食べられてしまえばいいのに。 そうしたら……幸せに……………。 鬼食いという存在、及び、行為を知っているだろうか。 大食いや馬鹿食いとよく意味が混同されるがこれは間違いだ。 鬼食いとは、王や貴人達の毒見役をする人、またその行為を指す言葉である。 事は厨房の隣にある個室で。 本来、鬼食いのためにあてがわれた部屋は今、正に通い来る来訪者への対応に追われていた。 「我々が行います故、どうか…」 「お止めください。貴方様が自ら鬼食いなどなさるなんて…!」 皿を下げようとする下女の行動を避け、丁寧ながらも必死に制止しようと試みる下男の声を聞き流しながら食事をする存在が其処には居た。 簡素なデザインながらも品のある黒いシャツに身を包んだ男は一目で使用人でないと分かる。 では、一体誰か。 「「いい加減になさいませ、アルフォンス皇子様!!」」 遂に諌められたアルフォンスは優雅な動作でスプーンを置き、にこりと微笑んだ。 「今日も美味しい料理をありがとうございます、と後で料理長に伝えてくれないかな」 畏まりました、と答えながら全く反省する気配のない皇子に召使は心で溜息を付いた。 「アルフォンス様、恐れながら申し上げます。貴方様含め王族皆様の口にするもの全てを毒見するのが我々の仕事なのです。 この命に代えましても皆様の安全をお守りする覚悟で御座います。ですので…どうかこの場からお引取り願いませんでしょうか」 下男は思う。この言葉を言うのは何度目だろう。その返答はいつも決まっている。 「父上や母上方、そしてアリリアの毒見をしっかりしてくれればいいよ。其れが貴方達の仕事なんだから」 微笑を湛えたままアルフォンスは今しがた自分が毒見た皿を銀の盆に乗せた。 其れを見た下女がぱたぱたと走り、運ぶためのワゴンを取りにいく。 その場に残った下男に向かい、アルフォンスはこれまた毎日変わらぬ事実を投げかけるのだ。 「フェルラートは『影』である僕が守らなくては。そうだろう?」 長兄にして第一王位継承者フェルラートの影武者。 太陽国の日食と呼ばれる異端の皇子はそう言って今日も召使達を困らせるのであった。 数え切れないほど在る王宮の一室の重い扉をアルフォンスは開け放った。 清廉ながらも丁寧、かつ上品な内装の駄々広い広間には円卓が一つ。大きなそれを囲む三つの椅子。既に二つの席には見慣れた姿が座っていた。 どうやらアルフォンスが一番遅く着いてしまったようだ。椅子越しに振り返った少女は微笑んで手招きをする。 「アルフォンス兄様、此方ですわ」 「すまないね、少し遅れてしまった」 妹、アリリアに示されるまま席に着いたアルフォンスは軽く詫びを入れる。円卓の上には既に前菜とスープが運ばれていた。 まだ湯気立っている様からさほど時間経っていないようである。弟、フェルラートの皿が確かに自分の毒見た皿である事を横目で確認する。 繊細なタッチで書かれた金色の太陽の皿はしっかりとフェルラートの前に。 「…兄さん、また毒見をしていたのですか」 「どうしてそう思うんだい?」 「口の端にソースが付いています」 口元に手をやると確かに紅い液体が付いていた。 程よい酸味と甘みに芳醇な葡萄酒の香り。今日のメインディッシュのトマトソースである。元々隠すつもりもないため気にしてもいなかったのだ。 其れを指でふき取り何事も無いかのように舐める兄の姿にフェルラートは顔をしかめる。 「兄さん、鬼喰いは止めて下さい」 アルフォンスがフェルラートの毒見をするのは最早日常の生活の一部となっていると言っても等しい。 そしてフェルラートも当然その事実を知っていた。 「もし万が一、毒が入っていて兄さんが倒れでもしたら…僕は……」 伏せ目がちの忠告。その仕草は不安を抱えている時のフェルラートの癖である。 「僕はフェルラートの影なんだ。その事実を忘れてはいけないよ」 分かったかい、と諭すように微笑むとフェルラートは「はい」と頷いた。だがその表情は晴れることなく曇ったまま。 心ではきっとまだ葛藤しているのだろうと容易に想像がついた。フェルラートは優しい。 僕なんかとは違って。 「それとも、僕が食べた料理には口を付けたくないかい?」 茶化すようにアルフォンスが言うと、フェルラートは目を見開いて即答した。 「まさか!僕が兄さんを嫌いになるはずありません!」 「フェルラートお兄様は本当にアルフォンスお兄様がお好きなのですね」 くすくすと笑ったアリリアは二人の兄の顔を見やり「羨ましいですわ」と付け足した。 「嫌だなぁ、アリリア。血を分けた兄弟が嫌いな訳ないじゃないか」 「アリリアも大好きだよ」 「まぁ、兄様方ったら…お上手ですわね」 ふふふ、あはは、と談笑が三人を包み込む。テーブルの上には暖かなお皿。 「さぁ、冷めない内に食べよう。でないと作り手に失礼だ」 簡単に神に祈った後、食器を手に取った。 あたたかなしょくたくにひめられた、つめたいわなにはだれもきづかない。 隣に座っていたフェルラートが小声で兄を呼び始めたのは、食事が始まり暫くしての事だった。 「…兄さん……、兄さん………!」 隠れた位置でアルフォンスの服の袖を引き、小声でフェルラートは兄を呼んでいる。 「どうしたんだい、フェルラート」 呼ばれたアルフォンスが声を掛けると、フェルラートは我に返ったようにはっとアルフォンスを見上げた。 「あっ、その、いや……」 挙動不審な動作。平静を保とうとしながらも、その表情は何故か苦しそうである。 先刻までと比べると頬はほんのりと紅く染まり、額には汗が滲んでいた。 ただ事ではない弟の異変。 気づきながらも、アルフォンスはあえて気付かない振りをした。 普段から浮かべている微笑みを崩すことなく、更にフェルラートに訊ねる。 「毒でも入っていたかい」 我ながら意地の悪い問いだったと思う。がちゃん、と食器が鳴った。 「だ、大丈夫です……!」 語の意味を察したフェルラートは全力で首を横に振った。 「お兄様?どうかなさいました?」 「なんでも…ないんだ……」 言葉とは裏腹に口から熱い息を吐くフェルラートの異常にアリリアは眉を顰める。 なんでもない、なんてことない事は目にも明らかだった。 「お兄様、様子がおかしいですわ。近衛兵を呼びましょう」 「そうだね、そうしようか」 アリリアの提案。アルフォンスの同意。 その先が何に行きつくか。想像に容易い展開である。 彼女が。その一言をぽつり、と。 「もしかしたらお食事に何かが入って……」 疑惑。 「アリリア」 淡々とした声が姫君の名を呼ぶ。普段以上に真剣な声音にアリリアは先を紡ぐのを止めた。 「……この事は…他言無用だよ……。……いいね?」 フェルラートは笑った。 無理をしていると一目で分かる微笑みには有無を言わさぬ強さがあった。 こんな表情を浮かべるフェルラートに何を言っても無駄だと悟ったのだろう。 アリリアは渋々といった様子で「はい」と呟くと、黙り込んだ。 一瞬が永遠にも感じるほどの静寂。 たった数分の間に一転、重々しい雰囲気が部屋中を包み込んでしまった。 テーブルの上のお皿の中身はすっかり冷めきっている。 「僕がフェルラートを部屋に連れて行こう。アリリアは食事を済ませなさい」 アリリアの冷ややかな視線がアルフォンスの背中に注がれていた。 「立てるかい、フェルラート」 弱々しく頷いたフェルラートの手を取り、アルフォンスは僅かに微笑んだ。 「兄さん……、身体が熱いんだ………」 長い廊下をゆっくり歩くフェルラートは息も絶え絶えに呟いた。 部屋を出てから暫く歩いているが、幸い二人は誰にも状況を察されることなく今に至る。 もしかしたらアリリアが人払いの処置を施してくれたのかもしれない。 フェルラートの部屋まで、あと少し。 「兄さん…。兄さん………」 うわ言のように兄を呼ぶフェルラート。「大丈夫」と諭しながらアルフォンスはその髪を撫でた。 「直ぐに部屋に着く。そうしたら収まるから」 「兄さん…、ごめんなさい……」 うっすらと目には涙の幕が張っている。支えるために握っている手も熱を帯びて熱い。 何度も何度も謝り続けるフェルラートを宥めて、アルフォンスは自然に話題を変えた。 「……どうしてアリリアに口止めしたんだい?」 だって、と。 「僕に何かあったら…全て兄さんが……責を……」 兄を慕う弟はこうするだろうと予め予測はしてあった。だから、アルフォンスは言う。 「ありがとう、フェルラート」 お礼の意味が分からず、一瞬きょとんとしたフェルラートだったが、直ぐにその表情は嬉しそうな笑みに変わった。 矢張り、フェルラートは優しい弟である。 「……着いたよ」 ふらふらとアルフォンスの先導誘われるままに室内に入ろうとしたフェルラートをアルフォンスは引き寄せ、抱きすくめた。 けれど、僕はその優しい弟を。 「ごめんね」 理解できず呆然としたままのフェルラートの唇に噛みつくようにキスをした。 「ふぁ…ぅ……んんっ……!」 合わせたフェルラートの唇から洩れる吐息は甘かった。 弟はこんな事になるなど、予想すらしていなかったのだろう。 目を見開いたまま硬直しているフェルラートに構うことなく、アルフォンスは舌を割り込ませ、無理矢理絡ませた。 何度も、何度も、何度も、何度も。 唇を解放させて、動きの止まったフェルラートの耳元でそっと囁いた。 「フェルラートの食事に毒は入ってないし、入れてもいない」 驚愕の表情を浮かべているフェルラートにアルフォンスは優しく微笑んだ。 いつも通り。 果たして、その笑みは普段通りのものだっただろうか。 「入れたのは媚薬をほんの少し、だよ」
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