ヒトが祈る意味 前編


  〇月 ×日   天候 曇り

  独りだった世界に、一人の少女が迷い込んで来た。
  彼女は僕とは違う少女だった。
  不思議そうな眼で僕を見て、彼女は色々尋ねる。
  僕は笑い、微笑んだ。
  あぁ、何年ぶりだろうか。


  夜、夢の始まりとともに。
  私の眼下に在るのは何処までも続いている巨大な扉。
  精緻で丁寧な装飾が施されている真っ白なそれは不思議な世界への入り口だ。
  私は何事も無いかのように押し開ける。ぎぎぃ、と重い音を立てながら扉は私を迎え入れるように開いた。
  広がる世界は無機質な白。何処までも何処までも真っ白な大地と真っ白な空が広がっている。
  いや、大地や空というより巨大な全てを包み込む四角い箱というのが正しいだろうか。
  開く事のない大きな箱。終わりはあるのか。
  景色が変わることは無い。飽きることなく同じ白を見せる。
  在るモノは二つの椅子。雪白色。生きるモノは二人。私と彼。
  私は歩く。後ろでは扉の閉まる音がした。歩む足は止まらない。
  今日もきっと来ているだろう、もう一人に会うために。
  彼の姿は直ぐに見つかる。椅子に座った少年は私の存在に気がつくと、考えに耽っていた顔をあげ、微笑んだ。
  「今晩は」
  「やぁ、今晩は。今日は遅かったね」
  毎日数時間だけ来ることができる世界で会える唯一の存在。
  私は彼と向かい合うように椅子に腰掛けた。椅子はひやりと触れた肌を冷やす。
  「今日は何について話そうか」
  彼は楽しそうに私にきらきらと輝く瞳を向けた。
  私の夜は過ぎていく―――――。



  私が何故こんな不思議世界に夜な夜な迷い込むことになったのか、私自身も分からない。
  自らの意思ある夢。
  起きた後も夢の中での自分の行動が全て思い出せるのだ。面白い一夜限りの夢だと初めは思った。
  いつからかだろうか。それが一夜も途切れずに続くようになったのは。
  いつも楽しそうに語るのは彼である。私は彼の話にじっと耳を預け時に同意し、時に異を唱える。
  折れそうなほど細い身体にすらっと伸びた手足。儚く笑う顔は今にも消えそうで。
  そんな頼りない印象を持たせる少年は空間の中で初めて私に会った時も不振がりもせずとても嬉しそうに笑って言った。
  「此処に僕以外の人が来たのは君が初めてだよ」
  歳があるとするならば、私より少し上位か。とても幼い笑みを見せる彼は白い空間と同化するかのように真っ白な服を着ていた。
  真っ白なシャツ、真っ白なパンツ。真っ白な靴。瞳と髪だけが真っ黒でとても印象的だった。
  好奇心でだろうか。彼はきらきらと輝くその瞳で私をしげしげと眺める。
  「でも、君は僕とは別なようだね。真っ黒だもの」
  そういわれて私は初めて自分を見た。真っ黒なブラウスに真っ黒なスカート。靴下も靴も真っ黒な私は彼とは相違。
  その姿は完全にこの世界から浮いていた。
  「でも、此処に来たってことは僕と同じなのかな」
   彼はうーんと声を上げて腕を組む。一人思考の海に沈んでいきそうな彼に、まだ右も左もわからない状態の私は尋ねた。
 「此処は何処なの?夢の中なのは分かるけれど……」
  返ってきた答えは答えではなかった。
  「此処は何処なんだろうね」
  目の前の私を通り越して何処かを見つめながら彼は呟くように。
  「『眠る』という行為を介して入れる世界なんだろうけど」
  それ以外は分からないや、と笑っておどけたように手を開いて見せる。
  「ただ、共通していながらも反しているナニカがあるのかな」
  「なに?それ」
  益々訳が分からなくなって首をかしげる。彼は、あはっと更に笑った。
  「さぁ?」
  不思議な少年だと思った。
  だが、私は確かにその笑顔に惹かれたのだ。



  「……聞いてる?」
  じっと私の顔を覗き込んでいた彼はどうしたのか、と小首を傾げ私の目の前で手を振っていた。
   どうやらぼんやりとしていたらしい。
  「なんでもないわ」
  慌ててごめんね、答える。
  「何故だろうね。初めて会ったときのことを思い出したの」
  「もう随分前だね。懐かしい」
  彼のふふふっと笑う表情が好きだった。どんな些細な事にも、どんな他人の事にも自分の事のように楽しそうに笑ってくれる。
  「じゃあ、今日は、『共通していながら反している』話にしようか」
  「うん」
  彼は自らの考えを伝え語る。じっとそれを聞くのは私。
  私たちはお互い名前や素性を知らない。お互いがこの世に存在しているのかさえも謎である。
  だけれども、感じるのは懐かしさだ。
 
  ずっとこうだといいのにな。

 

  「祈織、朝よ。いい加減起きなさい」
  「………はぁい」
  朝、夢から現実へと引き戻すのは母の声である。目覚まし時計は少し前に封印した。
  少しでも多くの間を向こうで過ごしたかったから。
  のっそりと寝ぼけ眼を擦りながら外を見る。ちゅんちゅんと雀が鳴いていた。
  空は蒼い。
  雲ひとつ無い青空に私はため息をついてしまった。
  あぁ、また朝が来た。
  そんな当たり前の事に軽い絶望を感じながら私は制服へと着替える。
  「祈織、おっはよー!」
  友人は毎朝私を迎えに来る。同じ団地に住んでいて、幼い頃からずっと一緒にいる仲の良い友達だ。
  「おはよう」
  私は明るく努めて返す。顔には微笑みをつくって、心では憂いて。
  家も嫌だ。学校も嫌いだ。全てに何も見出せない。
  だが、そんなこと友達に話すことではない。だから、上辺で笑う。
  心のうちを晒すよりもよっぽど楽なことだ。同じ事をすればいい。 
  同性の前では同じように歓声を上げてはしゃぎ、おどけて見せる。
  異性の前では少し澄まして大人びる。
  先生の前では言うことを良く聞く素直な生徒となればいい。
  簡単なことだ。
  「今日もいい天気だねぇー」
  「そうだねぇ」
  友人は、手を伸ばしながら空を見上げる。私も空を見上げた。
  窓で見たよりも燦々と太陽の光は降り続ける。私は眩しくて、太陽に手を翳した。
  少し影が出来るが、光はそれをすり抜けて視界へと入ってくる。光はしつこい。
  欲しいのは闇なのに。
  「そういえばさーぁ…祈織の家のお隣さん大変らしいねー」
  「らしいねぇ」
  団地であるためどんな情報でも直ぐによそ様へ伝わる。噂が広まるのは早い。
  水に落ちたインクのように。
  「うちらの二つ上だっけ?病気でもう駄目って聞いたよ」
  「うん、うちのお母さんも言ってた」
  適当に相槌を打つ。そういえばそんな話を先日母がそんな話していた気もするが、よく覚えていない。
  隣の人とはあまり積極的な付き合いは無い。きっとその時も「ふぅん」という興味のない相槌で終わったのだろう。
  「病気っていえば私の家でこの間さー………」
  噂好きな友人は私にひたすらに相槌を繰り返す。
  心は此処に在らず。
  太陽さえ出なければ、ずっと夜なのにな。
  ずっとずっと眠らされていたと伝わる童話のお姫様を羨ましく思う程、私は眠りを、闇を、あの世界を求めていた。
  嫌いな場所にも行くことがなく、ただあの場所にいられるのに。
  私自身が闇になってしまえばいいのに。闇に呑まれて消えてしまえばどんなに楽だろうか。
  それは清々しい朝の陽気とは全く正反対のモノ。
  濁った私はただただ願っている。
  私が唯一現実の世界の中で求めているものは、ただただ自らの死のみであった。
  

  ある日、彼は笑っていなかった。いつも私が来るとにこやかに出迎えてくれる彼は一人黙り込み、椅子の上に両膝を立てて座っていた。
  遠くを見つめる目には何も映っておらず、彼の心が混沌としているのがわかった。
  目の前に立った私に気がつくこともなく、その瞳は動く事を忘れたかのように一点で留まっている。景色映らぬ眼は濡れていた。
  「……今晩は」
  声を掛けると彼ははっと視線を上げ、私に笑みを作った。不自然だらけの微笑。
  彼に作り笑いは似合わなかった。
  「今晩は」
  いつもと違う、彼は。
  「泣いていたの?」
  その両目は真っ赤になって痛々しく腫れていた。涙が伝った跡もある。
  彼は慌てて両手で目を隠し、膝に顔を埋めた。まるで悪戯がばれない様に必死になる子供のように。そして、顔を伏せって言う。
  「君には君のために祈ってくれる人がいる?」
  彼は続けた。声は掠れることなく、はっきりとした口調で。
  「祈りと願いは違う。願うことは簡単でも、祈ることは難しい。祈る事はその人を案じ、愛するということと同じなんだって。
  もし君の大切な人が病気になったとする。そうしたら君は必死に祈るだろう。それはその人を愛しているという証拠なんだよ」
  誰も、大切な人には生きていて欲しいからね。
  「それだけさ。それだけだよ」
  その言葉は私に言ったのではなく、彼が彼自身に言い聞かせているようだった。ただそれだけ。それだけなのだけれど。
  「ねぇ、愛するって何だろう。愛されるって何だろう」
  彼は顔を上げて私に尋ねた。縋るような瞳は普段と同じように笑んでいる。いや、笑っているのではない。
  泣きたいがどう泣いたらいいのかが分からない、そんな表情だ。
  「僕のためにも…祈ってくれる人が何処かにいるのかな………」
  それきり彼は黙ったままぎゅっ、と更に自らの身体を抱き、黙った。
  沈黙が漂う。お互いが黙ったまま。
  彼は悩みに囚われ、私は答えを導きだせず。もどかしく時は過ぎる。
  私にとってこの空間は救いだった。嫌な現実とは異なり、二人だけの空間が。
  だが彼は正反対だったのかも知れない。彼は良く笑う人だったから、今まで考えた事もなかった。
  彼が私の救いとなったのだ。ならば、私が救いとなる番である。
  「私が祈るわ」
  私は自然に口に出していた。
  「私が、貴方を愛するの」
  ただ彼に恩返しがしたかっただけなのか。それとも、心から愛していたのか。
  そういう事柄に幼い私には良く分からないけれど。
  「………私の事、嫌いかしら」
  彼は顔を埋めたまま言った。その声は今まで聞いたこと無いぐらい小さな声だった。
  「いや……大好きさ」
  彼はとても恥ずかしそうに。嬉しそうに。私はそんな彼を見て微笑んだ。
  「一つだけ、一つだけお願いしてもいい?」
  彼は手を私に向かって差し出して。
  「手を……握っててくれないか」
  「うん」
  それ以上の会話はなかった。言葉の代わりに繋がれた手。
  その手はとてもとても温かかった。 


  この日、初めてこの空間に彩色が灯った。
  初々しく淡い頬色は喩えるならば桜の蕾が開いたかのような、薄紅色。



  △月 □日   天候 晴れ  

  夢の中で泣いてしまった僕に彼女は祈ってくれた。
  そして手をそっと握ってくれた。
  とても温かくまるで太陽の陽射しのようだった。
  今日、外は良く晴れている。だけれども僕は白い部屋にいる。
  期限は迫っている。急がなければ。
  彼女が白くなる前に僕は彼女を救ってあげなければ。
  愛しいからこそ彼女には―――――。





モドル   後編